高倉健が亡くなったということで、代表作の『八甲田山』を見た。
1977年の『八甲田山』は公開当時大ヒットを記録し、1980年の「影武者」に破られるまで日本映画の配給収入歴代1位を記録していた。明治33年に発生した雪中行軍隊の大量遭難事件を題材にした、新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」を原作としている。西暦に直すと1902年だから、すでに100年以上が経過しているわけだ。いま観直しても、映画の発する磁力に目が釘付けになる力作であり、今後これほど内容の濃い大作を作るのは非常に難しいだろう。
監督は「日本沈没」など大作映画を得意とした森谷司郎。本作の大ヒットを受けて、翌年には同じ新田次郎の遭難もの「聖職の碑」を監督している。製作・脚本は多くの黒澤明監督作品を手がけた橋本忍、撮影は「劔岳・点の記」を監督した木村大作と、ほとんど完璧な顔ぶれである。
音楽は「砂の器」でおなじみの芥川也寸志で、ドラマチックな主題曲は聴きごたえがある。もう一つ重要な曲は何度も歌われる軍歌「雪の進軍」で、♪馬は倒れる、捨てても置けず・・・という、軍歌とは思えぬ哀しい歌詞が心に残る。そしてBGMとしては、聞いていて怖くなるような猛吹雪のうなり声も忘れてはなるまい。
出演者は豪華そのもの。高倉健と北大路欣也を筆頭に、私が名前を知っている人だけでも、軍隊の偉い人を演じるのが三国連太郎、大滝秀治、丹波哲郎、藤岡琢也、小林桂樹、神山繁。軍人の家族を演じるのが栗原小巻、加賀まりこ、菅井きん。雪中行軍に参加する兵士に加山雄三、東野英心、緒形拳、前田吟。地元の民間人に加藤嘉に秋吉久美子。
この中で主役の健さん以外の儲け役を挙げると、平和な戦後まで生き延びてラストを飾る緒形拳と、健さんの弘前連隊の案内人として中盤の見せ場を作る秋吉久美子になるだろう。
それにしても明治時代とはいえ、訓練を積んで充実した装備を持ったはずの軍隊が遭難して、200名近い死者を出すというのは壮絶すぎる。これほどの大惨事に至った原因としては、予行演習がなまじ好天に恵まれてしまい、隊員の間に気持ちの緩みがあったこと。少数精鋭の弘前連隊に比べて、青森連隊は大雪に慣れない宮城・岩手出身の大人数で構成されていたこと。指揮系統が乱れたまま行軍を開始したこと。そこへ史上まれに見る大寒波が襲ってきて・・・。
さまざまな要因が重なった結果の悲劇であるが、致命的だったのは随行員に過ぎぬ三国連太郎の独断で、案内人なしでの行軍になったことだ。果たして連隊は道に迷ってしまい、崖を無理に登ろうとして滑落者が続出。健さんの弘前連隊が秋吉久美子の先導によって、難所を無事に超えていったのと対照的だ。三国連太郎が悪役を一身に背負っているが、指揮権の乱れを止められなかった指揮官の北大路や、三国の右腕であった加山雄三にも責任の一端があるだろう。
秋吉久美子が弘前連隊と別れるとき、健さんが「案内人殿に敬礼!」と号令するシーンは本作を代表する名場面である。部隊がほぼ全滅する悲劇に見舞われた青森連隊を尻目に、負傷者がひとり脱落するのみで雪中行軍を成功させる健さんのカッコ良さに目を奪われるが、「八甲田山で見たものは決して話してはならぬ。親兄弟にでも他言したら、官憲に追われることになるぞ」と脅すところは、軍隊の非人間性を描いたものとして見るべきだ。
映画のラストで、青森・弘前両連隊の生還者は日露戦争に従軍し全員戦死したとの字幕が出る。凍傷で足を失ったおかげで戦後まで生き延び、かつての遭難地に立つ緒形拳。大暴風雪に見舞われた同じ場所とは思えない緑したたる風景は、尊い犠牲を経て平和を取り戻した日本そのものを象徴しているのだろう。それでも、大変な思いをして生還した兵士たちが得たものが戦死とは・・・。やりきれない思いが残る。
映画について堅苦しく述べてしまったが、冒頭の十和田湖から八甲田山を空撮で捉えた錦秋の風景は息を呑むほど美しい。山体は200名近くの命を奪ったとは思えぬほど優美で女性的なラインを描いている。ほぼ全編、暴風雪で荒れ狂う姿が映されているが、高倉健の回想シーンで描かれる四季の風景は宝石のような美しさだ。田植えの風景が映し出されるが、多くの命を奪った大雪は雪解け水となり、住民の生活を支えていることが分かる。山岳国である日本は、山から多くの恵みと災難を同時に受けているということだろう。
これを書いている現在、長野・岐阜県境の御嶽山噴火が大々的なニュースになっている。大寒波と火山爆発、災害の質は違うけれど、八甲田山の悲劇はいまだ過去形になっていないのだ。山とどう付き合っていくかという命題は、日本人の永遠の問いとして突きつけられ続けるのだろう。このたびの噴火に遭遇された皆さんの無事を、心からお祈りしたい。そして、高倉健の死を悼みつつも冥福を祈りたい。